基礎を終えるのではなく、基礎の精度を深めていく。
NEO整体道場™は、パーフェクト整体®に代わる、新しい整体技術ではありません。
本講座で原理原則と型を受け取った先生方が、その技術を自分の身体で確かめ、自分の臨床で本当に働くものへ育てていく。
その先の稽古を行う場所です。
新しいのは、パーフェクト整体ではありません。
受け継いだ技術を磨き続ける、道場のあり方です。
パーフェクト整体には、基礎がたくさんある
「まずは、基礎から学びましょう」
よく聞く言葉です。
けれど私は、少し違う認識を持っています。
私はこれまで、基礎しかやっていません。
パーフェクト整体®には、その基礎がたくさんあるだけなのです。
身体の使い方。
立つ位置。
触れ方。
圧の方向。
関節の見方。
変化の捉え方。
筋膜や骨格系の解剖構造を、臨場感をもってイメージすること。
どこに問題があるのかを識別し、何をするのか、しないのかを判断すること。
どれも、最初に教わることです。
けれど、最初に教わることと、簡単なことは同じではありません。
同じ基礎を、どこまで細かく見分けられるのか。
どこに、何が、どのような状態で起きているのか。
その緻密さを、師匠は「体の解像度」と呼んでいます。
解像度が上がれば、見えるものが増え、判断できることも増えていきます。
けれど、見えるものが増えただけで、施術が正確になるわけではありません。
見えたものに対して、身体の使い方、立つ位置、触れる場所、圧の方向、手法の選択を、どこまで正確に合わせられるのか。
私は、体の解像度のうち、見えたものへ合わせていく側面を「精度」と捉えています。
体の解像度を上げながら、その解像度に見合う精度を育てていく。
それが、私の考えるパーフェクト整体®の上達です。
パーフェクト整体の深さは、基礎の先にあるのではありません。
基礎の内側にあります。
なぜ、スクールではなく「道場」なのか
塾やスクールには、知らないことを学び、技術の基礎と型を受け取る役割があります。
パーフェクト整体®における「守」を学ぶために、欠かすことのできない場所です。
けれど、技術は、教わった手順を覚えただけで使えるようになるものではありません。
同じ手法を使っても、触れる位置、身体の使い方、圧の方向、相手の状態の観え方によって、起きる結果は変わります。
型を受け取ったあとには、それを目の前の人に合わせて働かせるための稽古が必要です。
スクールでは、手法を学ぶ。
道場では、その手法から学び続ける。
どちらが上ということではありません。
学びの段階と、担っている役割が違うのです。
だから私は、この場所を「塾」や「スクール」ではなく、道場と呼んでいます。
道場で育てたいもの
ここで育てたいのは、誰かの答えがなければ動けない施術者ではありません。
目の前の身体を観ながら、自分で答えに近づいていける術者です。
そのために道場では、手技の形だけでなく、
- 何を観るのか
- 何と何を比べるのか
- なぜ、その手法を選ぶのか
- その判断によって、身体に何が起きたのか
- 結果を受けて、何を修正するのか
を繰り返し確かめます。
違いを識別し、判断する。
結果を観て、自分のズレを校正する。
迷ったときには、原理原則と基礎へ戻る。
それが、施術者として自分の足で立つための稽古だと考えています。
答えを先に渡さない理由
答えを先に知れば、その形を再現することはできます。
けれど、
どこを観て、
何を感じ、
なぜそう判断したのか。
そこを自分で通らなければ、目の前の人が変わったときに使えません。
答えを渡さないことが目的なのではありません。
知覚をショートカットせず、自分の判断のズレを自分で発見できる回路を育てる。
その先で、誰かの答えがなくても、目の前の身体から次の一手を考えられるようになる。
そのための時間です。
NEOに込めたもの
道場という言葉に、厳しい上下関係や、精神論、根性論を思い浮かべる方もいるかもしれません。
けれど、私が昔ながらの道場から受け継ぎたいのは、誰かに服従する関係ではありません。
ひとつの技を繰り返し稽古すること。
できない自分をごまかさないこと。
未熟さを恥じるのではなく、次に観るべきものとして受け取ること。
仲間と違いを確かめながら、ともに磨き続けること。
その稽古の文化です。
NEO整体道場™には、対話があります。
安心して「分からない」と言える空気があります。
互いへの尊重があり、笑いもあります。
間違いを責めるための厳しさはありません。
ただし、技術を曖昧にしたまま、分かったことにはしません。
なぜなら、私たちが向き合うのは、練習のための課題ではなく、痛みや不調を抱えて来てくださる、お客様の身体だからです。
やさしさはあっても、ごまかさない。
安心感はあっても、曖昧にしない。
互いを尊重しながら、技術と判断を磨き続ける。
昔ながらの道場が持っていた稽古の本質を、今の時代に合った関係性のなかへ置き直す。
その意味を込めて、NEO整体道場™と名づけました。
稽古の場
合同練習会

合同練習会では、本講座で受け取った手法を、異なる身体、異なる手、異なる感覚のなかで確かめ直します。
ひとりで練習していると、いつの間にか、自分の感覚だけが基準になっていきます。
術者と受け手を交代しながら、どこへ圧を入れたのか。どこに圧を感じたのか。方向、位置、強さ、質はどうだったのかを、自分の言葉で伝え合います。
施術の前後を比べる。
自分と他者の違いを比べる。
同じ手法で、なぜ結果が変わったのかを確かめる。
そこで見つかった違いを、自分では見えなかった癖や、分かったつもりになっていたズレを知るための材料として受け取ります。
私は、何を観るのか、何と比べるのかを返します。
先生方は、互いの手と身体を借りながら、自分で違いを識別し、判断し、修正していく。
できているつもりと、実際に相手の身体に起きていること。
そのズレを材料に、体の解像度を上げながら、見えたものに自分の判断と身体操作を合わせていく。
解像度に見合う精度へ、一つずつ校正していくのが合同練習会です。
個人レッスン

合同練習会が、仲間との比較によって自分のズレを見つける場なら、個人レッスンは、その人に繰り返し現れる癖を深く辿る時間です。
身体の使い方、立つ位置、触れ方、圧の方向、組織の捉え方、手法を選ぶまでの判断。
うまくいかない箇所だけを直すのではなく、なぜその結果になったのかを、一緒にほどいていきます。
目指すのは、臨床で迷ったとき、自分で原理原則と基礎へ戻り、もう一度考えられること。
その人のなかに、戻れる基準を育てます。
合同練習会と個人レッスンは、現在、パーフェクト整体®の本講座を修了された先生方を対象に行っています。
黒帯へ育つ環境
私が先に整えたいのは、技の数ではなく、基礎を高い精度で扱い、誰かの正解を待たず、自分で基準へ戻れる術者へ育っていく環境です。
裾野を広げることよりも、まず、いまここで学んでいる先生方が黒帯へ進めること。
全員の手を見続け、一人ひとりへ必要な修正を返せること。
それが、道場として守りたい品質です。
道場長 佐藤 潤

パーフェクト整体®認定講師。
本講座を修了された先生方を対象に、合同練習会と個人レッスンを行っています。
私自身は、本講座を五回、上級講座を五回受講し、片平先生からの個人レッスンも二十回以上受けてきました。
認定講師になってからも、レッスンとチェックを受け続けています。
これは、たくさん学んだという実績の話ではありません。
一度で分かる人間ではなかった、というだけの話です。
分かったつもりになり、臨床で違いを思い知らされ、もう一度戻る。
できるようになったと思い、確かめてもらい、自分では見えていなかったズレを知る。
その繰り返しを通して、技術は、教わった手順を覚えただけでは使えるようにならないことを知りました。
道場長とは、完成した人の呼び名ではないと思っています。
誰よりも基礎から離れず、いちばん稽古を続ける人の呼び名です。
私が渡せるのは、すべての人に共通する正解ではありません。
迷ったときに戻れる原理原則と基礎。
違いを比較できる環境。
自分の判断を確かめ、校正するためのキッカケ。
そして、私自身がどのように学び、迷い、判断し、修正し続けてきたのかという、一人の施術者としての背中です。
渡すのは、背中。
架けるのは、その人。
言葉として残す
稽古や臨床のなかで見えたことを、いくつかの形で書き残しています。
師匠は、パーフェクト整体®の手順をテキストと動画によって極限まで言語化し、多くの人が技術と出会い、学び始められる道を開きました。
その一方で、私自身も、言葉になった手順を追うほど、その行間にあるものまで分かったつもりになってしまう。その難しさを、学び続けるなかで何度も思い知らされました。
身体操作、感覚、そして判断。
そこにあるのが、パーフェクト整体®の心臓ともいえるコアです。
だからこそ、私が受け取ってきたそのコアを、次に続く先生方へ、誤解のない形で渡したいと思うようになりました。
悩み、書いては消すことを繰り返し、ようやく言葉になったものがMyougiです。完成後には師匠にも内容を確認していただき、お墨付きをいただきました。

Myougiでは、こう言っています。
基礎がすべて
それは、学び始めた人へ向けた標語ではありません。私自身が基礎の精度を追い続けた先で、最後にたどり着いた言葉です。
Rinkakuは、最初から暗黙知の存在を示すために書いたものではありません。
合同練習会で起きたこと、先生方の声、対話の過程を残していった結果、言葉では届かない何かが確かに在ることが、輪郭として浮かび上がりました。
言葉によって、暗黙知の中身へ近づいたMyougi。
場と対話の記録から、暗黙知の輪郭が現れたRinkaku。
生まれ方は違います。だからこそ二つは、パーフェクト整体®の暗黙知をめぐる、陰陽のような対の記録です。

MyougiとRinkakuは現在、サトラボの先生方だけが読むことのできる、道場の内側の記録です。
このほかにも、現在二つの記事を書き続けています。
「兄弟子のヒトリゴト by サトウ」には、P整体を学ぶ先生方が臨床で迷ったとき、方位感覚を取り戻すための言葉を。
「Column by NEO整体道場™長」には、できたことだけでなく、分からなかったこと、間違えたこと、戻り直して見えたことを。
いずれも現在、サトラボの先生方だけが読むことのできる記事です。
合同練習会から生まれた言葉は、「Okite – 掟 -」として残しています。
これは、私が先に決めた規則ではありません。合同練習会を一年半続けるなかで、先生方が何度も同じ場所でつまずき、そのたびに言葉になっていったものです。
書かれているのは、できない人への手引きではありません。「知っている」「できる」と思った瞬間の自分を、止めるための言葉です。
たとえば、こんな言葉があります。
知ってる。できる。
そう思った瞬間から、
ズレる。止まる。
その間に、魔が差す。
誰かを縛るためではなく、P道を外れそうになったときに戻るために。少しずつ、育てています。

書くこともまた、私にとっては稽古です。
受け継いだ技術から離れず、見えたものを曖昧なままにせず、次に続く先生方へ残していく。
それもまた、道場長の役目だと思っています。
ここまで来てくださった方へ
NEO整体道場™でご一緒できるのは、現在、パーフェクト整体®の本講座(50期以降)を修了された先生方です。
新規の方に向けた体験会や、本講座は現在行っていません。
本講座を修了され、受け取った技術を自分の臨床で働くものへ育てたい先生は、現在の活動をご覧ください。
まだ本講座を修了されていない方や、まず佐藤潤という人間と、パーフェクト整体への向き合い方を知りたい方には、記録をお届けしています。
最初にお渡しするのは、『Ayumi – その感触 -』。
はじめまして、の代わりにお渡ししている、私の歩みの記録です。
NEO整体道場™ for パーフェクト整体®
道場長 佐藤 潤
